アサダケ

とても個人的な内容です。

さいごの1日

 

2018年4月26日、この日はわたしの命日になるはずだった。

 

3月。友人の死から半年の間、鈍色の日々をやり過ごしていた。楽しいこともまるで無かった。生活リズムを整えるために始めたアルバイトのために早朝、電車のホームに立ったなら、線路に吸い込まれそうな感覚が何度もあった。地面に映った進むパンタグラフの影を、ふたりで飛び超えてじゃれたのを思い出し、涙をこらえた。

 

それでもわたしを生かしていたのは、惰性以外の何物でもなかった。

 

4月になり高校2年生になるとともに、また学校に通い始めた。友人たちや教師は、わたしをかわいそうな人扱いした。確かにわたしが彼らの立場なら同じことをするだろうと、今なら思える。周囲から気を使って遠巻きにされるのはいやな被害妄想が顔を出した。逆に構われるのはこの人たちは義務感からやっているのだろうか、わたしのことは放っておいてくれ、と身勝手な思いが募った。

 

健康診断やら、新年度のオリエンテーションやらで4月の初旬は目まぐるしい速さで過ぎていった。こういう風に忙しい日常を過ごしていれば、苦しいことも忘れられると思った。

 

気のせいだった。制服を着て授業を受け、部活へ行き、帰宅。その学生が体験する一連の流れは、彼女の居ない日常をより際立たせた。欅の木の下、多くの生徒が部活の違う友達と待ち合わせするあの木の下に、彼女がやってくることはもう無い。わたしと違って真面目に部長をしているから、雑務をこなして少し遅くなり、いつも待たせてごめんね、と走ってくる彼女の姿が見えることは二度と無い。

 

励ましの言葉など棄てるほど貰ったが、ある人が、「先は長いんだから、もっと楽しいことがこれから先に沢山あるよ」 と言った。これまで生きた16年間の間に、楽しいことと苦しいことをどれくらい覚えているか考えた。苦しいことの方が多かったように思えた。そうか、まだまだか、と落胆した。未来になんの希望も持てなくなった。

 

4月23日、わたしは自殺することを決意した。気が変わってしまわないように、決行日は近い方が良かったので、26日に自宅で首を吊ることにした。それが1番、色々な意味でかける迷惑が最小になる方法だったからだ。

 

翌日は帰宅後ホームセンターへ行き、紐などを購入したあと、部屋の掃除をした。特に死後に見られて困るものは無かったし、遺書を認める気も無かった。友人は居ないことは無かったが、クラスが変わる度に毎年疎遠になっていた。両親は……いくらひどい扱いをしても、本当に最後の最後、つらい時に傍に居てくれると思っていたが、そのわたしの愚かな期待は裏切られ続けたからだ。

 

4月25日、わたしのさいごの1日になるはずだった日。自分の人生のさいごの1日を明確に知覚できる人は、自殺志願者しかいないのではないだろうか、なんて暢気なことを考えていた。人生さいごの日に家でじっとしているのもなんだか違うような気がして、一日中散歩をしていた。歩くのは好きだった。体を動かしていることで、頭が整理されていく感覚があった。生きているのも悪くなかったな、つらいことの方が多かったけど、それも今日でおさらばだ、という風に、この日は彼女が亡くなってから、もっとも晴れやかな気分で過ごせた1日だった。

 

さて4月26日、何事もなく帰宅し、計画を実行することにした。紐を結ってからロフトベッドの柱に紐を括りつけ、踏み台を蹴るまでに、10分もかからなかった。それくらい迷いはなかった。踏み台を蹴ってからどれくらい経っただろうか。おそらく3分もしないうちに脳が酸欠状態になり、意識が遠のいた。なんだ、思っていたよりも楽に死ねるのか、と1番懸念していた痛みはほとんど無かった。

 

しかし時間にしてほぼ正確に1時間と25分後、病院で意識を取り戻すことになってしまった。ベッドのフレームが割れてしまったのだ。重みを面では支えられても、点にかかるそれには耐えられなかったようだ。父と母は病院で泣きながらわたしを叱った。「お前にいくらかけたと思っている」と。なんでもよかった。一応、死なれちゃ困るんだな、とそこで家族の愛情を知った。

 

さて、ある時は今でも友人を亡くしたことや、失恋のことを思い出し、ある時は自分の無能さを思い知り、死にたくなる時がある。しかしいちど死の淵まで行ったことある身としては、死にたい死にたいと涙が止まらないのは、生きたい気持ちの裏返しだということも分かっている。本当に死にたい時は、案外さらっと実行に移せたからだ。

  

 

冬眠

先の記事で語ったとおりの出来事のために、わたしは11月から高校1年生が終わるまでの約半年間、学校には行けずにいた。

 

12月中はずっと自室に篭っていた。勉強も何も出来ず、大好きな歌を歌うことも、音楽を聴くことも、何もかもやる気が起きずに泣き明かしていた。

 

1月になり、センター試験を受けに外出したのをきっかけに、散歩をするようになった。近所を歩くのはつらかったが、いずれ克服しなければ生活が出来ないので頑張ってやっていた。ある時、夜中に公園で泣いていると、声をかけてきた女性がいた。彼女の名前をここではMとする。曰く、23歳でフリーター、近所のアパートに恋人とふたりで暮らしているらしい。わたしの涙の理由をMは優しく引き出してくれた。すごく話しやすい人だった。また次の日もこの時間に会おうと約束をした。不思議な夜だった。1月の真夜中にも関わらず、オレンジの街灯が辺りを暖かくしているような空気があった。

 

また次の日に、次の日にと回数を重ね、わたしの現在の状況を知った彼女は、あるバイトを紹介した。わたしの高校はアルバイトが禁止だった。しかしわたしの担当医が、「家に閉じこもっているのは良くないから、学校に行けないならアルバイトをしなさい」という旨の一筆をしたためてくれたために、特別にアルバイトの許可がおりた。不定期で野球場でビールを売るバイトはしていたが、大体が平日の夜と土日だけだったため、平日の昼間は暇だった。それにじっとひとりで考えこむ時間はとても苦痛だった。そういうわけで、わたしはMの持ちかけるアルバイトを、内容も給料も聞かずに二つ返事で承諾したのだ。

 

内容は時によって全く違った。結婚式で親族のフリをする、や美術品(らしい)の輸送をするトラックに乗車し、指定の場所に届けたあとサインをしている所を見届ける、や新しく自販機を置けそうな場所を探す、や占い師の話を聞く、だ。何のためか予想がつきそうな物もあれば、本当にわけが分からないものもあった。

 

肝心の労働条件であるが、拘束時間は9時頃から15時頃まで。昼食も1日1,000円支給され、プラスで必ず約3万円が貰えた。それも当日現金手渡しで。もちろん雇用契約書なんてものは無い。今ちゃんとした所でそれを交わし働いている身からすれば、このバイトがかなり怪しいのは理解できる。しかし当時のわたしは、これをおいしいバイトくらいにしか考えていなかったのだ。

 

そんな関係が2ヶ月くらい続いたが、ある日Mと連絡がつかなくなった。Mの住んでいたアパートからMは転居しており、唯一の連絡先であるLINEもおそらくブロックされていることがわかった。公園で話した日以降、仕事になるとプライベートの話はしなかったため、彼女がわたしと過ごすアルバイトの時間以外にどのような生活をしているのか、家族はいるのか、など全く知らなかったのだ。あまりよく知らないということは、思い入れることも少ない。おいしい稼ぎ口が無くなったくらいにわたしはその出来事を咀嚼し、時間は過ぎていった。

 

そして去年の2月頃、わたしはMと偶然再会することになる。わたしは最寄り駅で大きなキャリーバッグをひいているMを見かけたので声をかけた。そしていつもの公園のベンチで彼女は語った。自分が暴力団関係者と交際していたこと、何らかの手法(詳しく言っていた気がするが忘れた)でクレジットカードとその暗証番号を聞き出すいわゆる"出し子"をしていたこと、それが警察に知られ、実刑2年を言い渡されたが、家族に高額の保釈金を出してもらい現在保釈中であること、だ。その時はへぇ〜くらいにしか思わなかったが、「じゃああの時美術品だって言っていたものは、なんだったんですか?」と聞くことをしなかったのを後から後悔した。きっとなんらかヤバイものだったに違いない。

 

世間知らずな高校生をダシに使うなんて!と少し怒りの気持ちが沸いたものの、わたしは捕まらなかったので(これから捕まるかもコワイ)「あ〜よかった!」という気分である。おわり。

 

あのさ

これは、わたしが背負っている罪のすべての記録である。

 

高校1年の冬に親友を亡くした。

彼女は、クラスではカースト上位に弄ばれ、勉強と部活の傍らでゲームとアニメ漬けの、いわゆる"冴えない"わたしとは対照的だった。運動部の部長で、学力も常に学年で1桁台、少し近寄り難い雰囲気があるが、それはみなが彼女を尊敬しているゆえのことだった。半期ごとに選挙で選ばれるクラス委員は、彼女が毎期務めていたくらいには。

 

そんな彼女との出会いは高1の春、同じクラスになったのがきっかけだった。彼女はわたしより身長が3cmほど高い。4列に整列すると、ちょうど隣だった。体力測定でペアを組むことになり、最後の種目は持久走。わたしも中学3年間はバスケ部だったので運動が苦手なわけではなかったが、持久走に関してはてんでだめだった。お互いのタイムを計測する形式だったので、彼女が走り終えたあとにわたしの番が来た。とても不安そうなわたしに、彼女がある提案をした。「一緒に走ろう」と。持久走で誰かと並走している人なんて、中盤以降に歩いてしまうような人を励ますためにたまにやる人がいるよなぁ、とそれを考えれば恥ずかしくもあった。しかし、先の段落で述べた通り、彼女はなにもかも"デキた"ためにちょっとした有名人であった。わたしはその提案を受け入れることにした。結果は上々だった。持久走が苦手とはいえ、所詮運動部。1km走りきれないなんてことは無かったのだ。とはいえ終始息も乱さず隣で励ましてくれた彼女は、とてもかっこよく見えたのだ。

 

その体力測定をきっかけにして、わたしは彼女と仲良くなった。それまでは気づかなかったが、最寄りが一緒で家が大変近かったのだ。というわけで「お互いの部活が終わったあと、一緒に帰ろう」と提案したのはわたしだった。友達らしい友達がいなかったわたしにとって、そういった関係が羨ましかったのだ。その提案は快くOKされ、一緒に帰ることになった。これもあとから知ったことだが、それまでの彼女は通学時間を勉強に充てていたらしい。どうして受け入れてくれたのか何度か聞こうとしたけれど、不快に思われてその関係が崩れるのが嫌で結局言い出すことは出来なかった。

 

ある日、電車を降り、人気の無い道を通る。その際に彼女はわたしにプライベートなことを打ち明けた。ともに東大出身の両親から大きなプレッシャーを受けていること、その両親からほぼ毎日罵声を浴びせられている姉がいること、その姉は東大の受験に失敗し、2度の浪人を経て結局ニートになってしまったこと、等々だ。彼女の両親は彼女をとてもかわいがり、姉を毒虫のように扱っているそうだった。彼女と姉は食べるものも、身につけるものも全てが違った。明らかに姉は差別されていて、それに耐えられないと彼女は嘆いた。意外だった。学年のみなから尊敬され、2人きりになってもいつだってかっこいい彼女がそんな悩みを吐露するなんて。日を追うごとに、彼女の言葉はより詳細になっていき、わたしはあんなに楽しかった彼女との帰路が憂鬱になっていった。

 

その話が出てから2週間くらいした頃だった。わたしは「家の話はもうやめてくれないか、あなたが家族から差別されたりと酷い扱いを受けているわけではないじゃないか」「わたしは、あなたの家ほど明確ではないにしろ、妹よりも扱いが酷く、罵声だけではなく、夜に外に出されたり、殴られたりすることもよくあるのに」「自分だけがつらいなどと言わないで欲しい」そんなことをいっぺんに。最後に、「あなたとは学校の話とか、楽しい話がしたいな、今までどおりね。」と言ったのを覚えている。

 

それから少し経ち、帰りは相変わらず一緒だったが、朝は彼女は遅刻がちになった。今まで無遅刻無欠席だったので教師にも心配されていたが、季節の変わり目で体調が優れなくて、と言っていた。

 

そしてまた1ヶ月ほど経った11月5日の正午ごろ、彼女は自ら命を絶った。日曜日だったが、両親はともに仕事だった。姉は自宅にいるものの、自室にこもったままであった。わたしは金曜日、土曜日と学校を休んだ彼女が心配で家まで行ってみたのだ。マンションの管理人さんに事情を説明し、自動ドアをくぐり抜ける前、ふと駐車場に目を移した。そこからの記憶は混乱はしていたものの、一生忘れることが出来ないくらいに鮮明であったが、あまりにも衝撃的であるのでここで描写することは控えておく。

 

とにかく彼女は亡くなった。葬式が身内だけで執り行われた後、警察の捜査が始まった。まずはじめに、彼女の両親は、学校でのいじめを疑ったらしい。そこで第1に事情を訊かれるのはわたしだった。クラスの誰に聞いても、わたしとよく一緒に居たと証言したからだ。そして、クラス内や部活でいじめは行われていなかったことも、クラスメイトや部員の証言で明らかになった。わたしは女性警察官に執拗に彼女と普段どんな会話をしていたのか、自殺する直前、どんな話をしたのか、と問い質された。しかし、わたしはなにも答えることが出来なかった。当時のわたしは彼女と高校生活に関する記憶のほとんどを失ってしまっていたからだ。解離性健忘という病名がついたのは、その聴取のだいぶあとだったが、医師曰く「心に震災などの大きなダメージを負うと、適応機制が働き、自分を守るために記憶が一時的になくなってしまうことがある」だそうだ。この病に関する詳しいことは、気分がのれば別の記事にしようと思うのでこれくらいに。聴取と病名がつくまでに約2週間のラグがあったため、聴取でのわたしへの心象は最悪だったであろう。後から聴取にあたった女性警察官の上司から、謝罪とともに聞かされたことだが、当時その警察官はわたしが彼女の自殺のきっかけを作り、下手な嘘をつくとそれがバレた時に収拾がつかないため黙り込んでいたと考えたらしい。警察側はわたしの聴取のあとに、多くの人から証言を取ったこと、そしてわたしと彼女のLINEのやり取りをみて、学校生活が彼女の死の原因ではないという結論に至った。結論は事件性なし、彼女の死は校内でも次第に風化していくことになった。

 

ここまでが事の始まりから顛末である。しかし、無実が証明されたとはいえわたしの苦悩がそこで消えるわけではなく、ますます思い悩むことになる。全ての記憶を取り戻したあとに何回か受けた聴取の中で、わたしはわたしが彼女が亡くなる2ヶ月前に放った言葉の内容を語っていない。誰かが他に聞いていたわけではないし、自分に不利になることを言わないでおこうという自己防衛の心がはたらいたからだ。しかし彼女がそのあたりから遅刻が増えたり部活を欠席したりしていたのは確かだった。同時期に心を病んだ彼女の姉が家から脱走したという話もあとから聞いたが、そのことについて、わたしは詳しくは知らない。

 

わたしが今でもずっと考えることはひとつ。「わたしが引き金を引いたのではないか」ということだ。彼女は遺書を遺している。両親、クラスの担任、部活の仲間、そしてわたしへの記述があった。「友達でいてくれてありがとう、一生忘れないでいてね」とあった。ありがとうはまだいいが、一生忘れないで、は呪いだ。今から考えれば、学校で完璧超人と思われている彼女には、悩みを話せる人がいなかったのだろう。その悩みの吐露を、「聞きたくないから」という自分勝手な理由ではねのけたわたしのことを、彼女は呪っているのではないか、そんな思いにずっと苛まれている。

 

この話に出口はない。大きな悲しみのなかで言えることは、誰かのことをひとたび大好きでいるときの嬉しさや興奮や輝きは、失った時の悲しさと涙の前借りをしているのだ、という自論のはじまりの出来事だった。