アサダケ

とても個人的な内容です。

あのさ

これは、わたしが背負っている罪のすべての記録である。

 

高校1年の冬に親友を亡くした。

彼女は、クラスではカースト上位に弄ばれ、勉強と部活の傍らでゲームとアニメ漬けの、いわゆる"冴えない"わたしとは対照的だった。運動部の部長で、学力も常に学年で1桁台、少し近寄り難い雰囲気があるが、それはみなが彼女を尊敬しているゆえのことだった。半期ごとに選挙で選ばれるクラス委員は、彼女が毎期務めていたくらいには。

 

そんな彼女との出会いは高1の春、同じクラスになったのがきっかけだった。彼女はわたしより身長が3cmほど高い。4列に整列すると、ちょうど隣だった。体力測定でペアを組むことになり、最後の種目は持久走。わたしも中学3年間はバスケ部だったので運動が苦手なわけではなかったが、持久走に関してはてんでだめだった。お互いのタイムを計測する形式だったので、彼女が走り終えたあとにわたしの番が来た。とても不安そうなわたしに、彼女がある提案をした。「一緒に走ろう」と。持久走で誰かと並走している人なんて、中盤以降に歩いてしまうような人を励ますためにたまにやる人がいるよなぁ、とそれを考えれば恥ずかしくもあった。しかし、先の段落で述べた通り、彼女はなにもかも"デキた"ためにちょっとした有名人であった。わたしはその提案を受け入れることにした。結果は上々だった。持久走が苦手とはいえ、所詮運動部。1km走りきれないなんてことは無かったのだ。とはいえ終始息も乱さず隣で励ましてくれた彼女は、とてもかっこよく見えたのだ。

 

その体力測定をきっかけにして、わたしは彼女と仲良くなった。それまでは気づかなかったが、最寄りが一緒で家が大変近かったのだ。というわけで「お互いの部活が終わったあと、一緒に帰ろう」と提案したのはわたしだった。友達らしい友達がいなかったわたしにとって、そういった関係が羨ましかったのだ。その提案は快くOKされ、一緒に帰ることになった。これもあとから知ったことだが、それまでの彼女は通学時間を勉強に充てていたらしい。どうして受け入れてくれたのか何度か聞こうとしたけれど、不快に思われてその関係が崩れるのが嫌で結局言い出すことは出来なかった。

 

ある日、電車を降り、人気の無い道を通る。その際に彼女はわたしにプライベートなことを打ち明けた。ともに東大出身の両親から大きなプレッシャーを受けていること、その両親からほぼ毎日罵声を浴びせられている姉がいること、その姉は東大の受験に失敗し、2度の浪人を経て結局ニートになってしまったこと、等々だ。彼女の両親は彼女をとてもかわいがり、姉を毒虫のように扱っているそうだった。彼女と姉は食べるものも、身につけるものも全てが違った。明らかに姉は差別されていて、それに耐えられないと彼女は嘆いた。意外だった。学年のみなから尊敬され、2人きりになってもいつだってかっこいい彼女がそんな悩みを吐露するなんて。日を追うごとに、彼女の言葉はより詳細になっていき、わたしはあんなに楽しかった彼女との帰路が憂鬱になっていった。

 

その話が出てから2週間くらいした頃だった。わたしは「家の話はもうやめてくれないか、あなたが家族から差別されたりと酷い扱いを受けているわけではないじゃないか」「わたしは、あなたの家ほど明確ではないにしろ、妹よりも扱いが酷く、罵声だけではなく、夜に外に出されたり、殴られたりすることもよくあるのに」「自分だけがつらいなどと言わないで欲しい」そんなことをいっぺんに。最後に、「あなたとは学校の話とか、楽しい話がしたいな、今までどおりね。」と言ったのを覚えている。

 

それから少し経ち、帰りは相変わらず一緒だったが、朝は彼女は遅刻がちになった。今まで無遅刻無欠席だったので教師にも心配されていたが、季節の変わり目で体調が優れなくて、と言っていた。

 

そしてまた1ヶ月ほど経った11月5日の正午ごろ、彼女は自ら命を絶った。日曜日だったが、両親はともに仕事だった。姉は自宅にいるものの、自室にこもったままであった。わたしは金曜日、土曜日と学校を休んだ彼女が心配で家まで行ってみたのだ。マンションの管理人さんに事情を説明し、自動ドアをくぐり抜ける前、ふと駐車場に目を移した。そこからの記憶は混乱はしていたものの、一生忘れることが出来ないくらいに鮮明であったが、あまりにも衝撃的であるのでここで描写することは控えておく。

 

とにかく彼女は亡くなった。葬式が身内だけで執り行われた後、警察の捜査が始まった。まずはじめに、彼女の両親は、学校でのいじめを疑ったらしい。そこで第1に事情を訊かれるのはわたしだった。クラスの誰に聞いても、わたしとよく一緒に居たと証言したからだ。そして、クラス内や部活でいじめは行われていなかったことも、クラスメイトや部員の証言で明らかになった。わたしは女性警察官に執拗に彼女と普段どんな会話をしていたのか、自殺する直前、どんな話をしたのか、と問い質された。しかし、わたしはなにも答えることが出来なかった。当時のわたしは彼女と高校生活に関する記憶のほとんどを失ってしまっていたからだ。解離性健忘という病名がついたのは、その聴取のだいぶあとだったが、医師曰く「心に震災などの大きなダメージを負うと、適応機制が働き、自分を守るために記憶が一時的になくなってしまうことがある」だそうだ。この病に関する詳しいことは、気分がのれば別の記事にしようと思うのでこれくらいに。聴取と病名がつくまでに約2週間のラグがあったため、聴取でのわたしへの心象は最悪だったであろう。後から聴取にあたった女性警察官の上司から、謝罪とともに聞かされたことだが、当時その警察官はわたしが彼女の自殺のきっかけを作り、下手な嘘をつくとそれがバレた時に収拾がつかないため黙り込んでいたと考えたらしい。警察側はわたしの聴取のあとに、多くの人から証言を取ったこと、そしてわたしと彼女のLINEのやり取りをみて、学校生活が彼女の死の原因ではないという結論に至った。結論は事件性なし、彼女の死は校内でも次第に風化していくことになった。

 

ここまでが事の始まりから顛末である。しかし、無実が証明されたとはいえわたしの苦悩がそこで消えるわけではなく、ますます思い悩むことになる。全ての記憶を取り戻したあとに何回か受けた聴取の中で、わたしはわたしが彼女が亡くなる2ヶ月前に放った言葉の内容を語っていない。誰かが他に聞いていたわけではないし、自分に不利になることを言わないでおこうという自己防衛の心がはたらいたからだ。しかし彼女がそのあたりから遅刻が増えたり部活を欠席したりしていたのは確かだった。同時期に心を病んだ彼女の姉が家から脱走したという話もあとから聞いたが、そのことについて、わたしは詳しくは知らない。

 

わたしが今でもずっと考えることはひとつ。「わたしが引き金を引いたのではないか」ということだ。彼女は遺書を遺している。両親、クラスの担任、部活の仲間、そしてわたしへの記述があった。「友達でいてくれてありがとう、一生忘れないでいてね」とあった。ありがとうはまだいいが、一生忘れないで、は呪いだ。今から考えれば、学校で完璧超人と思われている彼女には、悩みを話せる人がいなかったのだろう。その悩みの吐露を、「聞きたくないから」という自分勝手な理由ではねのけたわたしのことを、彼女は呪っているのではないか、そんな思いにずっと苛まれている。

 

この話に出口はない。大きな悲しみのなかで言えることは、誰かのことをひとたび大好きでいるときの嬉しさや興奮や輝きは、失った時の悲しさと涙の前借りをしているのだ、という自論のはじまりの出来事だった。